2008年05月08日
お久しぶりです
朝から津久見の保育園でひと仕事。
それからerieriさんと手分けしてお役所巡り。
せっかくお街に出たのでまたじゃん公通りをぶらぶらして
キノパパに手を振って愛想振りまきぃの、sakapaさんにご挨拶しぃの
(お買い得のサマースリッパ買っちゃった)、kinokoさんとばったり会いぃの
でお腹がすいて今日もまた相棒とランチしちゃった・・・・
昨日は散財したので今日は庶民の味方「yum yum cafe」へ
このところ勉強や仕事に追われてすっかりご無沙汰だったので
久しぶりにあの階段をとことこ上るといつもどおり笑顔で迎えていただきました。
yum yumねえさんとビジネスは大変だぁと互いを慰め合って
いつかじゃん公で異業種ビジネス大会やりましょうよぉと
盛り上がる。誰か幹事さんやってくれる人いませんかしら・・・
で登場したランチをむさぼっていただいたので写真するのを忘れたので
yum yum cafeのブログから無断借用しました。。すいません。。。

春巻き2種類(たけのこと春雨、豚キムチチーズ)、
小さなおかず2品、サラダ、お味噌汁、ごはん、ドリンク
懐に春が来ない私たちにはぴったりの値段、なのにこのボリューム
ありがとうって言いたくなるランチです。
そして飛んで帰ってこれからお仕事。英語のレッスンは夜まで続きます。
しっかり食べたからがっつりと頑張ります。

それからerieriさんと手分けしてお役所巡り。
せっかくお街に出たのでまたじゃん公通りをぶらぶらして
キノパパに手を振って愛想振りまきぃの、sakapaさんにご挨拶しぃの
(お買い得のサマースリッパ買っちゃった)、kinokoさんとばったり会いぃの
でお腹がすいて今日もまた相棒とランチしちゃった・・・・
昨日は散財したので今日は庶民の味方「yum yum cafe」へ
このところ勉強や仕事に追われてすっかりご無沙汰だったので
久しぶりにあの階段をとことこ上るといつもどおり笑顔で迎えていただきました。
yum yumねえさんとビジネスは大変だぁと互いを慰め合って
いつかじゃん公で異業種ビジネス大会やりましょうよぉと
盛り上がる。誰か幹事さんやってくれる人いませんかしら・・・
で登場したランチをむさぼっていただいたので写真するのを忘れたので
yum yum cafeのブログから無断借用しました。。すいません。。。

春巻き2種類(たけのこと春雨、豚キムチチーズ)、
小さなおかず2品、サラダ、お味噌汁、ごはん、ドリンク
懐に春が来ない私たちにはぴったりの値段、なのにこのボリューム
ありがとうって言いたくなるランチです。
そして飛んで帰ってこれからお仕事。英語のレッスンは夜まで続きます。
しっかり食べたからがっつりと頑張ります。

2008年05月08日
途方にくれて

I have come to realize more and more that the greatest disease
and the greatest suffering is to be unwanted, unloved,
uncared for, to be shunned by everybody,
to be just nobody to no one.
「最悪の病気と最悪の苦しみは、必要とされないこと、愛されないこと、
大切にされないこと、全ての人に拒絶されること、
自分がだれでもなくなってしまうことだと、より実感するようになりました。」
マザー・テレサ(1910-1997)
保護者の方からの一本の電話。
小学校の先生が宿題を出しすぎて子どもが毎晩泣きながら宿題しているという。
覚えることや理解することが苦手な子である、いろんなことに時間がかかる。
だけど素直で頑張り屋さんである。優しい妹思いの女の子である。
出会ったころは自分に自信がなくてちょっとおどおどしていたけど少しずつのの進歩が
嬉しいって思えるようになって同じことを何度も練習してはとびきりの笑顔で誇らしげに
その成果を見せてくれたていたりした。
その彼女が重い気持ちで毎日学校へ行くという。小学2年生。
長い時間掛けて仕上げた宿題が赤いXと先生のダメだしで戻される。
どんな気持ちがするだろう。
よぉ頑張ってやったんだねってなぜ言ってあげられないのだろう。
私自身も時々保護者の方からお叱りを受けることがある
もっとできていて良いのではないかと。
週一回の英語のレッスンは一年に直すと2日分もない。
子どもたちが楽しいと感じてそれでいてものすごく英語ができるようになったなぁと
自分で自覚できるように持っていくのは骨の折れる仕事だ。
でも少しずつの進歩が自分への励みとなるように頭よりも心を鍛えて
知識を活かせるようになるように私なりに頑張って子どもたちに向かい合っている。
それはすぐに結果が出せることでないことを多くの大人たちは理解している。
それでいて、子どもの成長するということが1+1=2のようにすぐに手に入る
優しい数式と同じようにすぐに結果を求めていたりもする。
土を耕し種をまき、長い時間をかけて物事の本質を教えることが教育ではないのかと
時々泣いて叫びたくなるときがある。
土を耕すこともせず種をまいたら早く実を実らせろとせかされる。
心の中にある魂を育てずにただ知識をあてがったところで学び得るものがあるのか。
能力があって学ぶことができるのだから人として学ぶ力をつけてあげることが
先ではないのかと子どもと一緒にいればわかりそうなものなのにである。
私は長い間教える仕事をしてどんなに遠回りでも子どもたちには
先々できっと力になるものを持たせて送り出してあげたいと
そういう自分の考えを曲げずに頑張ってきた。
何かを持たせることができるとするなら幼いうちに学ぶに足る力をつけてあげる
ことが何より大切と思う。知識を身につける力が備われば
いつからでも何でも子どもたちは自らが学べる人になる。
子どもに関わる人たちはみな最初はそう思っているのではないかなと思う。
だけどそれがいつまでも通らないことを現実の中で知る。
結果が求められるからである。子どもの成長は静かにじわじわとやってくる。
できなくてもそれでもいいのだと受け入れて、認めて、励まして
やる気を見せるようになって子どもの中の何かが変わる。
そんなプロセスなしでとにかくできるようにと教師が焦れば子どもは孤独の中で
行くべき道を見失う。これくらいやってよねというプレッシャーは
子どもの中の自信をつぶす。そして子どもの人格までを破壊する。
子どもの中にある成長がゴールではなく数字が結果になってしまう。
そしてそれは教師たちのせいなのだろうか。
待てない、待たない親たちが自分がどのように育ててきたかは問わずに
教師たちを追い込んでできるようにしなくちゃならないという焦りの中で
教育の本質を見失った教師を生み出したのではないかなと悲しくなる。
そして心に不安と焦りを抱えた教師たちを救える手段はないのだろうか。
そして子どもを持つ親たちを社会全体がサポートしているのだろうか。
豊かな国日本で豊かな心がきちんと育っているのだろうか。
宿題に追われる子どもになんとかクラスのみんなについてけるようにしてあげたい
と一生けん命なお母さんは彼女につきっきりでそれをやらせている。
重い負担の毎日なんだな、彼女はもう私のところへは来ない。
抱きしめてあげることすらもうできなくなっちゃったんだなと思うとつらいな。
フォニックスがいえた日のあの輝く笑顔の素晴らしさを失わないでほしいと
願うばかりです。
どうすることがベストなのか時々途方にくれるときがあります。